憲法

2009年8月25日 (火)

一人一票実現国民会議

今日25日の朝日新聞6面に、「一人一票実現国民会議」なる団体の意見広告が出ています。その団体のHPはこちら。

http://www.ippyo.org/

いわゆる議員定数不均衡の問題です。1票の重みが選挙区によって異なっているのですが、上記ページで自分が住んでいる選挙区の1票の重みが分かります。

わたくしの選挙区は、衆議院が0.47、参議院が0.23でした(高知3区と比べた場合)。ということは、8月30日に行われる衆議院総選挙では、高知3区に住んでいる選挙権者の半分の重み・価値しかないということです。参議院にあっては約1/5の価値しかない・・・。

意見広告では、今回の国民審査の対象となる裁判官9名のうち、2007年の最高裁判決で議員定数不均衡の判断をした3名がどのような判断をしたのかが載っています。田原裁判官は1票の不平等を「憲法の趣旨に沿うものとは言い難い」としましたが、涌井裁判官・那須裁判官は「一票の不平等を容認」した旨、記載されています。

アメリカでは、連邦下院議員選挙の1対0.993でも憲法違反により無効とされたそうです。

この意見広告や、HPも国民審査の1つの判断材料になると思います。

最高裁判所裁判官の国民審査について

8月30日に、衆議院議員総選挙が行われますが、

同日、最高裁判所裁判官の国民審査も行われます。

大学時代には、表を作って、自分の意見(この人には×を!)を載せて、友人に配ったものでした。

しかし、国民審査で解職させられた裁判官はいまだに0。マスコミは選挙のことはとりあげるけれど、国民審査となると、とくにテレビは何にも報道しませんよネ。わたくしだけ見ていないのか?

以前の記事にも書きましたが、「竹内裁判官にバッテンを」という運動も起きているようですネ。理由は、イラクへの自衛隊派遣を決めたときの外務次官だったから、あのときの自己責任論バッシングをした人だから、というのが理由のようです。

8月24日の朝日新聞の6面に、少ない記事ではありますが、参考となる記事が載っています。

わたくしは・・・その他の判決も含めて検討して、現在、3名の裁判官に「×」をつけようと考えています。3名は信任。残り3名をどうするか・・・。

昨日は、心が折れました・・・。色々といや~なことがあり・・・。こんな簡単に心が折れることはなかったのにナ~。

2009年8月12日 (水)

清永聡「気骨の判決 東條英機と闘った裁判官」新潮新書

清永聡「気骨の判決」(新潮新書)を一気に夜のうちに読みました。

8月16日に同名のがNHKで放映されます。これもぜひ、見たいと思います。

内容は・・・

「吉田久、命がけで東條英機と闘った裁判官―。政府に非協力的な国会議員を排除する意図があったとされる『翼賛選挙』では、聖戦遂行の美名の下、国民の投票の自由を実質的に奪う露骨な選挙妨害が行われた。他の選挙無効の訴えが退けられる中、吉田は特高の監視や政府からの圧力に負けず、戦時中に唯一の『選挙無効』判決を下す。これまでほとんど知られることのなかった気骨ある判決と孤高の裁判官の生涯を追う」(同書の表紙裏より)。

戦争間近のあの時期に、戦争へ向かう政府・軍部に迎合することなく、戦った無名の人たちに、感動しました。Rockです、生き方が。気骨あふれるというか、反骨の精神というか。でも、知りませんでした。こういう人たちがいることを、ちゃんと歴史で教えろっちゅうねん。杉原地畝さんといい、もっと日本人に知られて良いと思うんですがネ・・・。

判決書が載っているという、書籍は、明日、図書館で借りてきます。

以下、自分の気になったところ。

53頁以下「第一回口頭弁論が開かれる前に、自ら各民事部の部長に呼びかけて、台新院内で裁判官会議を開いたのだ。議題は法律の解釈だった。・・・吉田が問題視したのは、当時の衆議院議員選挙法82条の解釈だった。」
 「選挙の規定に違反することあるときは、選挙の結果に異動を及ぼすのおそれある場合に限り、裁判所はその選挙の全部または一部の無効を判決すべし」
 この「選挙の規程」に違反して無効となる場合について、当時は、手続きの問題や管理ミスに限るという説が有力だった(『改正衆議院議員選挙法示解』)。無効な選挙人名簿によって選挙を行ったとき、選挙に際し投票所の告示をしなかったとき、告示した場所において選挙をしなかったとき、選挙人でない者が投票をしたとき、正規の投票用紙を使用しなかったときなどが、その例と考えられていた。したがって、翼賛選挙のような組織的な選挙干渉や妨害を「規定違反」に該当するかどうか、選挙法は想定していなかった。
 しかし、吉田は、衆議院議員選挙法の規定は、公選の精神を保つために定められていて、大規模な妨害や干渉によって、有権者の意思が抑圧されて、それが選挙全体に影響を及ぼすことになれば、法律が目指す自由で公正な選挙が行われたことにはならない、したがって、そのような場合は選挙無効の判決をすべきだ」という解釈を、各民事部の部長に述べて、同意を得たそうです。この会議が、のちに生きてくるのですが・・・。

以下、チェックしたところ。

67頁の前田直之助の言葉。

77頁の大河内輝耕(貴族院議員)の東條首相に対する、選挙干渉の危険性を指摘する質問。

81頁の吉田の、死を覚悟した鹿児島出張。

86頁、松尾實友の法律時報(昭和18年3月15日号)の座談会での発言。

113頁、大審院長の長島毅の法律時報の「戦争と法律」(昭和18年7月)。

117頁、憲法学者の美濃部達吉の、住居侵入罪(出征中の軍人の妻と情交する目的で回にわたってその自宅に立ち入った事件)の判例批評。

127頁以下の東條演説事件(司法省に対する脅しです)、とくに134頁以下。

141頁の戦前の裁判所の状況(101か所閉鎖、200人の裁判官・検事が陸海軍に転出など)。

141頁以下の、尾崎行雄不敬罪事件の無罪判決(三宅正太郎が裁判)。

143頁以下の、裁判への軍部の干渉の事例。

145頁以下の、岩松東京民事地方裁判所所長の義勇軍のエピソード。

159頁以下の、大河内輝耕が、貴族院予算委員会で、無効判決を取り上げての質問。

179頁。久野修慈中央大学理事長(製糖工業会会長)の吉田評。「吉田先生はね、一言で言うと『人間主義』なんです。自身が社会の底辺で苦労を重ねただけに、貧しい人にも豊かな人にも、一歳の予断を抱かずに、平等に謙虚に耳を傾け、その人のことを全て信頼しようとする。そこが立派でした。企業のリーダーも同じなのです。大切なのは商売の才能よりも、人を信頼し、人の話をどれだけ真剣に聞くことができるかということなのです」。

同頁。久野氏が「正義とは何か」という問いを投げかけた。吉田はこう答える。「正義とは、倒れているおばあさんがいれば、背負って病院に連れて行ってあげるようなことだ」。

182頁以下。尾崎末吉の昭和29年の冨吉栄二の追悼演説。

187頁、無効判決の原本が生き延びたわけ。

192頁。「吉田はどのような政治体制の元であろうとも、おかしいことはおかしい、と言い続けたいと考えていた」。

このほかにも、吉田氏は苦労して裁判官になった話、吉田の他の裁判の話など、興味深い話が載っています。

2009年6月21日 (日)

小山剛「『憲法上の権利』の作法」尚学社

帯には、「三段階審査、下限統制、制度準拠審査・・・論証の『マナーブック』」とだけ書いてある・・・。

 「憲法上の権利」の作法

今日は、「はじめに」の部分の要約。

1.本書は、
 ① 憲法の保障する権利・自由に対して国家が制限を加える場合(防御権)を基本権の典型であるとして、【A.基礎編】において論証の作法と基本的な論点について検討し、
 ② 【B.応用と展開】では、この典型とは前提が異なる種々の基本権問題―国家に作為を請求する場合や私人による人権侵犯である場合、憲法上の権利自体またはその行使が法律に依存する場合など―について解説している。

※ 憲法上の権利=憲法第3章の保障する権利・自由。「基本権」という語も同じ意味で用いる。
※ 防御権=各人の自由の領域を公権力の介入から保護するものであり、国家に対抗する権利。自由権的基本権の第1の内実。

2.防御権については、原則―例外の関係で考えればよく、また、そのような枠組みで考えるべきである。国によって妨げられることなく表現や職業選択を自由に行えるのが原則であり、国による規制は、例外的にのみ許される。例外は、(憲法上)正当化できなければならない。
 ここで重要なのは、原則ないし原形の輪郭を憲法から獲得できるということである。この原則・原形が何であるかについて、立法者の判断余地(裁量)は一切認められない。これは、憲法の次元で決まっていることであり、憲法のみを参照して獲得されなければならない。

⇒ 三段階審査
 第1段階;それぞれの憲法上の権利の保障範囲を画定(保護領域・保障範囲・保障対象)
 第2段階;その憲法上の権利に対して≪正当化を要する制限≫といえるだけの強さの干渉が加えられたのかを確認。
 第3段階;憲法上の権利に対する制限が例外的に正当化されるべき憲法上の条件を充足しているのかを審査。

= ①原則が何であるのかを明らかにし、
  ②法律または処分等が原則に対する例外に当たることを確認し、
  ③正当化されうる例外であるかを吟味。

①の作業→憲法解釈の次元で完結しなければならない。しかし、何が憲法上の原則・原形であるのかを、憲法の次元では獲得できないものがあり(生存権などの抽象的権利、選挙の仕組み、国籍、個別具体的な財産権など)、これらは、基本的には三段階審査になじまない。原則―例外関係にないからである。生存権についていえば、生活保護法によって具体的な内容を与えられるが、法律に求められるのは、憲法の命ずる下限に違反しないことであり、審査もまた、典型的には下限の統制という視点から行われる。

※ 立法者に広い判断余地が認められる段階には次の2つがある。
ア)防御権の事案について、「明白の原則」のような緩やかな審査が行われる場合。しかし、、そこで立法者の判断・評価が尊重されるのは、制限の必要性・合理性についてであって、≪職業選択の自由とは何か≫という原形=権利の保護領域についてではない。
イ)憲法上の原則・原形について立法者の関与が求められる場合。

3.防御権の構造および審査は比較的単純・明快であるとはいえ、実際に生起する基本権問題には個々に特徴があり、これに応じて、論証の十点の置きどころも種々に異なる。

感想;いわゆる「人権パターン」とそんなに変わらないじゃん、というの感想です。人権パターンとは、「誰のどのような人権が誰によって侵害され、その制約は許されるか」というパターンにあてはめて解答を導き出す書き方ですが・・・。基礎編以降に期待しましょう。

ただ、原則=何が憲法上の原則・原形であるのかについては、もっと厚く論じるべきではないかという高橋先生の言もどこかで読んだことがありますし、そこが一般的には足りないんでしょうネ・・・。

2009年4月13日 (月)

合憲性の審査基準 その1・・・渋谷「憲法」その1

合憲性の審査基準について、渋谷秀樹「憲法」(有斐閣)654頁が、うまくまとまっています。

(1)係争行為の審査の局面
 憲法上の主観的権利を制限・禁止などによって規制し、または憲法上の客観的原則の例外を認める行為が、違憲審査の争点となった場合

 ⇒目的審査・手段審査・関係審査

 目的審査;憲法上の権利を係争行為が規制するのは何のためか、つまりどのような権利・利益を守り、あるいは促進するためなのかを吟味するもの。この目的を確定するために立法事実の調査が非常に重要視される。

 手段審査:規制目的のために現にとられた手段が果たして妥当か、特にその手段がそれによって制約される権利・利益との関係で妥当かを吟味するもの。

 関係審査:その手段が立法目的を達成するために果たして有効か、その整合性を問うもの。

 ※ 手段審査と関係審査は常に行われるものではない。必要に応じてどちらかの審査の中に吸収されることがある。
 ※ 目的と手段との関係は、あくまでも相対的なもの。

(2)審査基準の内容(渋谷657頁の図を参照)

 厳格な審査⇒
  (目的)真にやむを得ない利益(compelling interest)
  (手段=比例原則)必要最小限度
  (目的と手段の関係)必要不可欠の関係(essential relationship)

 厳格な合理性の審査⇒
   (目)重要な利益(important interest)
   (手)より制限的ではない代替手段(less restrictive alternative)がない
   (関)実質的関連性(substantial relationship in fact)

 合理性の審査⇒
   (目)正当な利益(legitimate interest)
   (手)著しく不合理であることが明白でない
   (関)合理的関連性(rational relationship)

 (a)目的に関する基準
  ① 厳格審査=真にやむを得ない利益
     論証レベル→明白かつ現在の危険
     利益の例;「公正な裁判の実現」、「空港の設置・管理等の安全」

           「逃亡及び罪障隠滅の防止」と「監獄内の規律及び秩序の維持」
  ② 厳格な合理性の基準=重要な利益
     論証レベル→相当の蓋然性、具体的な危険
     利益の例;「国民の生活及び健康に対する危険の防止」
           「租税の適正かつ確実な賦課徴収」
  ③ 合理性の審査=正当な利益
     論証レベル→抽象的危険
     利益の例;「選挙の自由と公正の確保」
           「行政の中立的運営」の確保と「国民の信頼」の維持

  ※ もっとも、政府行為の目的に何の根拠もないことは現実にはあり得ないので、目的審査のみでは違憲の判断は導かれない。争われている政府行為によって制限される権利の位置づけを決めて、当該事案に用いられる違憲審査基準を選別する機能、すなわち手段または手段と目的の関係に関して、どのような基準を当てはめて審査を行うかを選別する機能があると考えられる。

 (b)手段に関する基準
  ※ いずれの手段審査でも、その手段によって失われる利益と、その手段によって得られる利益が衡量されることが多い。

 (c)目的と手段の関係に関する基準
  厳格審査→必要不可欠の関係、すなわち、目的を達成するための唯一の手段が現に争われている法令・行為であり、他に手段がないことを要求。

  厳格な合理性の審査→実質的関連性、すなわち、目的と手段の整合性が問われる。LRAもこの基準の1つ。

  合理性の審査→合理的関連性、すなわち、法令や法令の下で具体的に講じられた手段と立法目的との間に因果関係が認められないとき以外は合憲とする。

続く・・・。

2009年3月20日 (金)

戸波江二・小山剛「幸福追求権と自己決定権」

井上典之・小山剛・山元一「憲法学説に聞く」(日本評論社)の第1講です。

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幸福追求権(憲法13条)の射程に関する一般的自由説が良く分かります。通説は「個人の人格的生存に必要不可欠な権利・自由に限定する人格的利益説ですが、戸波先生は、「人間のあらゆる活動の自由を包含すると解する」一般的自由説を採用しています。喫煙、髪型、バイクなどに対する規制をめぐって対立が生じます。

校則問題(丸刈り・バイク・髪型等の規制)は、学校の中での、教師・学校による生徒の行為規制の問題であり、人権問題として見るべきであると戸波先生は言います。

なお、一般的自由説については、戸波先生以外にも阪本昌成教授も採っておりますが、阪本説は個人の自己愛を中心として自分が生きていく上で自分の利益のために行動するというのがすべてカバーされるべきとしており、保障の段階をつけないで、一般的自由を広く保障するべきとします。しかし、戸波先生は、阪本説に対して理解を示しながらも、厚く保護すべきものと保護の程度が低いものに二分してよいのではないかとされます。もちろん、保護の程度が低くても、憲法で保障されていると解します。

人格的利益説の問題点としては、人格的利益にかかわらない自由が人権ではないということになってしまう点だとします。そもそも憲法問題にならない点が問題だとし、生徒の行為が学校によって強制的に禁止される、場合によっては自主退学にまでなるのに、人権問題と構成できないのはおかしいのではないか、そういう問題意識に戸波先生は立たれています。

わたくしも学生時代に校則には良い思い出はなく、バンドをやっていて、髪型命!というときもありましたので、戸波先生の見解に賛成です。憲法の本を本格的に読んだのは佐藤幸治先生の本なのですが、ここの部分を読んで、とても違和感を覚えたことを記憶しています。芦部先生も裁量問題として捉えれば良いと書いていたと思いますが、学校の裁量があまりにも大きくなってしまうので、反対です。

一般的自由説に対しては、①人権のインフレ化、②人権規制の強化につながる、などの批判があります。①については、「人権としてオートバイに乗る権利が出てくるのではなく、およそ自分が決めるべき問題について国家によって不当に制約されないという権利があり、その自己決定の1つの内容としてオートバイに乗ることがあるので、それが規制されると、自己決定の制限ということで憲法問題になる」と反論しています。
②については、もっともな批判だとしますが、それでは人権問題にしなくても良いのかが問題、また、自由が広がったからといって、すべての人権侵害について違憲審査基準が緩まったり、人権制限が強化されたりということにはならないはずだと反論します。「小さな自由であっても、自由の制限は人権問題として構成するのが人権論として妥当なのではないか、
と佐藤幸説を批判します。

ドイツでは一般的自由説が判例・通説だそうです。これは、憲法裁判所に異議を申し立てるには、基本的人権に対する侵害を受けたと主張しなければならない、そういった手続き的なハードルをクリアするために、「基本権侵害」という一種の口実を与える必要があるためだそうです。ただ、基本方から導出される自由を重要なものに限定せず、人権を広く保障していくことが、現在の人権保障のあり方として適切であり、必要なのだということが強調されている点も見落としてはならないと、戸波先生はおっしゃっています。ちなみに、ドイツでは、乗馬の自由、薬物で酩酊する事由、鳩にえさをやる自由などの判例があるそうです・・・。

上記のほか、

* 「国会に対する禁止(客観的に憲法原則)」を「人権」と読み替えるのに反対
* アメリカの判例の動向
* 一般的自由は私人間にも適用があるのか
* 自己決定権の本質=自分のことは自分で決める、他人の干渉を受けない、というところ
* 「切り札としての人権」(樋口先生提唱、長谷部・辻村の有力説)に対しては、①比喩的で不適切、②切り札でない人権(財産権)の場合が不明確、と批判しますが、「切り札としての人権」という言葉の基礎にある思想自体は非常に大切であると評価されていました。そして、とても重要でかけがえのないものだという人権観は否定されるべきではないと同時に、実際の日々の生活の中で保障され、実現されていくものでなければならない、と締めくくっています。

こういう対談モノは、理解を深めるには、とても良いと思います。刑法でも、前田先生と大谷先生の「エキサイティング刑法(総論)(各論)」(有斐閣)がありましたが、

エキサイティング刑法 総論 Book エキサイティング刑法 総論

著者:大谷 実,前田 雅英
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エキサイティング刑法 各論 Book エキサイティング刑法 各論

著者:大谷 実,前田 雅英
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あれも理解を深めるには、とても良いと思います。わたくしのなかで印象に残っているのは、「因果関係」の認識が不要だという前田先生が、大谷先生を改説させるところですかネ。現在は、不要説では実行行為性の認識の中に因果関係が入り込んでいると批判されることがあるのですが、では前田先生が不要だとする理由(要求説だと、因果関係の認識がない場合には未遂さえも成立しなくなるのは不当)についてはどう考えるんだろうって。

話がずれちゃいましたが、こういう書籍は、増やしてほしいな~。「山口先生に聞く」って法学教室でもやっていましたが、ああいうものも需要はあると思います。

2009年3月18日 (水)

石川健治「法制度の本質と比例原則の適用」プロセス演習憲法(第3版)273頁以下

森林法共有林事件の判決の解説です。静岡地裁の第1審、東京高裁の第2審、最高裁の判旨(補足意見、意見、反対意見も)をまとめ、その後、基本解説、応用編(確認質問・応用問題)、理論編(展開問題)と進んでいく構成です。

まず・・・森林法判決を「違憲審査基準」に着目する見解=従来の学説(判例理解)には根本的な問題があり、法学教育上にも問題がある、と指摘します。
いわゆる二重の基準の理論は、精神的自由の裁判的保障のために導入されたものである反面、経済的自由については研究が疎かになってきた面があり、むしろ判例が先導的役割を果たしてきた、とします。そのため、経済的自由に関する判例については、薬事法判決の立法事実論的アプローチという側面において、解釈論の枠組みに採り入れられることとなったが、その他の憲法論の重厚な論理構成については、「杜撰」といってもよい理解しか示されなかったとします。
財産権においても二分論が妥当するという理解については、以下の2説が補強していると指摘。田中二郎教授の「公用収用理論」(二分論)や香城理論(規制目的の消極性・積極性、規制態様の直接性・間接(=付随)性の2つの座標軸から4象限に判例を分類)。しかし、森林法判決によって二分論を含む規制目的類型論の普遍妥当性は覆されたと。にもかかわらず、「二分論」が、なお「経済的自由」全般を貫く判例理論として取りざたされているのは、もはや単なる「思考の惰性」でしかない、と批判。

石川教授によって森林法判決を読み解くと・・・
① 憲法上の権利に対する規制の合憲性が正当化されるかどうかは、「これを一律に論じる」のではなく、具体的な規制措置に即して、規制目的が正当であるかどうか、また、目的を達成するための手段として当該規制が「必要性」と「合理性」を有しているか、という観点から検討する必要がある。
② その判断は、第一次的には立法府の裁量に委ねられている。
③ 裁判所としては、合理的裁量の範囲を逸脱・踰越しているかどうか、という形でのみ、「目的」の正当性と手段の「必要性」「合理性」についての立法府の判断を検討することが可能となり、「目的」と「必要性」・「合理性」は、裁判所による裁量統制基準として考慮すべき要素ともなる。

そして、立法裁量に対する裁判所の統制の密度を左右するのは、具体的な規制の目的・対象・方法等の性質・内容に照らして抽出される、「事の性質」如何であるとする。

事の性質とは、森林法判決では、法制度としての「共有」についての理解です。

立法裁量の統制を考えるための要考慮事項として、立法目的の正当性と、その達成手段として採用された具体的な規制手段の「必要性」と「合理性」が挙げられている。
必要性については、2通りの用法があり、①「手段の必要性」=「必要最小限度性」、②「目的の必要性」である。
前者は、目的を達成するためにひとしく有効な、その意味で目的と合理的な関連性のある手段が複数あるとして、そのなかで最もマイルドな最小限度の手段を選択することを求める、というもの。そして、さまざまにあり得る合理的な規制手段のレパートリーの中で、被侵害法益である憲法上の権利に対して最も侵害的でない規制手段を選ばなかった、というだけで立法府を非難しようというのであるから、そこまで裁量統制の密度を高めるに足る「事の性質」がそこには存するはずである
(この事の性質によって必要最小限度の要件の具体化の例として、営業許可性、猿払判決を説明

このように「必要性」の用語が混乱しているが、前田雅英教授の「刑法総論講義」の正当防衛に関する必要性と相当性の整理と図解は、きわめて示唆に富んでいるとしています。たしか、法学教室の中でも、同様の指摘をしていたし、客観的帰属論の話もしていましたネ。

必要性には2つの意義が存在するが、「不必要な立法ではない」という程度の意味での目的審査は実益をもたないので、結局は「必要性」の用語は、「手段の必要最小限度性」という意味に収れんされていくべきものであろう、と。

合理性についても、2つの異なる用法の存在が認められ、①立法府の合理的裁量という用法、②「手段の合理性」=合理的関連性という用法である、と指摘。
前者については、「理性に照らして正義にかなっていると判断できる」という実体的正義の観点で用いられるのに対して、後者は、「この手段を用いれば目的を一応実現できる」という程度の最小限度の合理性である。目的を実現するのにそもそも役立たない手段、目的に適合的でない手段をはじくために消極的に用いられている。
この「手段の合理(的関連)性」という意味での「合理性」は、「手段の必要(最小限度)性」に比べ、かなり緩やかな要件となっている、と説明。

森林法判決の最後に出てきた「比較衡量」論すなわち「得られる利益と失われる利益の均衡」という要件に、手段の合理性、手段の必要性、という3つの要件で国家による過剰規制をコントロールしようとする考え方は、行政法学にいう「比例原則」と呼ばれてきたものに相当する。行政権よりもハードな国家権力である刑罰権を扱う刑法学においても、類似の発想・用語が見られる。こうした用語を憲法学でも採用するなら、最高裁判所の憲法判断の基礎にほぼ盤石のものとして据えられているのは、比例原則であるといえるのではないか、そういう眼でさまざまな憲法判例を読み直してみるのは、興味深い企てである、としています。

森林法判決で、少なくとも経済的自由については、「二分論」ではなく「比例原則」が基調であるが、その具体的適用のあり方は、「事の性質」によってさまざまに変化し、統制密度を高めたり低めたりするのである、規制目的による「二分論」も、森林法判決で変更されたのではなく、それが用いられるかどうかは、「事の性質」次第である、と説明しています。

なお、森林法判決の判決文を、
(a)憲法29条の保護範囲
(b)基本的人権たる財産権の制約を正当化する事由
(c)立法府の裁量と裁量統制基準(比例原則)
(d)本件において考慮を要する「事の性質」
 ① 問題となる国家行為(森林法186条)とそれに起因する権利侵害(民法256条1項が定める共有分割請求権の否定)
 ② 森林法186条によって「制限される財産権の種類・性質等」
 ③ 憲法29条の保護範囲(「憲法上の財産権」)と森林法186条の合憲性を正当化する事由(「公共の福祉」との適合性)
(e)「公共の福祉」との適合性その1(立法目的)
(f)「公共の福祉」との適合性その2(立法目的達成手段としての「合理性」と「必要性」)
 ① 手段としての合理性
  i)森林の「共同経営」(目的的団体」の形成/共有者「相互」の権利義務関係の強化)と、森林の「共有」との合理的関連性
  ii)「森林経営の安定化」と、共有森林の「管理」「変更」行為の否定との合理的関連性
  iii)「森林の細分化防止」のために、「持分価額の2分の1を超えない」「遺産に属しない共有森林の分割」を禁止することの合理性
 ② 手段としての必要性
  i)2分の1を超えない共有者からの分割請求に限って、森林の細分化を防止する必要性
  ii)範囲・期間無限定の分割禁止を行う必要性
  iii)現物分割を(民法258条)を否定する必要性
  iv)まとめ
(g)比例原則の適用-裁量権の逸脱
★あてはめ
というように、整理しています。いま流行り(?)の三段階審査が少し分かるような分からないような・・・。

刺激的な書き方をしますネ。若いなーというのが第一印象。棟居快行教授の指摘(たとえば、棟居快行・小山剛「経済的自由権の規制二分論」(憲法学説に聞く第7講)なんて、読みやすくて分かりやすいと思います)を、理論化していく過程なのかな~、と。

そして、憲法の争点や、法学教室の連載へとつながっていく、その思考過程が分かるかな~と思います。

この「プロセス演習憲法(第3版)」(信山社)は、もっと評価されて良い本だと思います。

2009年3月16日 (月)

青柳幸一「人権と公共の福祉」(憲法の争点・28)

28「人権と公共の福祉」青柳幸一

 ;読みやすいです。学説・判例の展開までをうまくまとめています。

そして、「公共の福祉」論の課題を論ずる前提として、「公共の福祉」は、人権制約の正当化根拠とはなりうるが、正当化理由とはならない、したがって①「公共」性の積極的定義を目指した検討、②内在的制約・政策的制約の具体的内容の確定、③規制根拠・理由の意味・内容(人権相互の矛盾衝突、パターナリズムに基づく規制、「人の尊厳」に基づく規制等)を詰める必要がある、とします。

そして、人権制約の問題は、具体的・個別的な問題だから、それぞれの人権制約の正当化理由も、個別的・具体的に検討されなければならず、合憲性審査基準の「あてはめ」より、当該人権を制約するための説得力ある正当化理由の個別的・具体的な検討が重要となるとします。そのため、一定の判断枠組みから、あるいは先例を挙げて「その趣旨に徴して明らかである」として、直線的に結論を導き出すことは、結論の如何にかかわらず、判決の説得力という点で問題を残す、と指摘されます。これは、人権制約を審査する場合には、法解釈等によって示される判断枠組みだけで問題が解決することはほとんどなく、基本的に、当該事件に関する立法事実および司法事実に関する徹底的な分析が必要不可欠だから、とされています。この点から、最判平20・6・4判時2002号3頁の国籍法3条1項違憲判決は評価できる、としています。

学説が採る「三種の基準」(「厳格審査の基準」「中間審査の基準」「合理性の基準」)においても、何が「必要不可欠の目的」あるいは「重要な目的」であるのか、目的と手段の「実質的関連性」とは具体的にどのような関連性なのか等、より詳論する必要があるとしていす。
また、経済的自由の規制法令の合憲性を比例原則によって審査するとしても、手段の適合性や目的と手段の関連性等を事案の内容に即して個別的・具体的に検討することが必要であるとして、締めくくっています。

2008年12月15日 (月)

渋谷秀樹「憲法」(有斐閣)の戸松秀典教授の書評

憲法

有斐閣のHPがリニューアルされています。

欠点は、あちらこちらで指摘されていますが、著者名を載せていない本が多いんですよネ。

良かったのは、以前にはなかった「書評」でしょうか。

渋谷・憲法を戸松先生が書評を書かれています。

これは、興味深く読めます。これから購入を検討する人には、一度、読んでいただいてから決めた方が良いと思います。人権の分類も一般的な(伝統的な体系)と異なりますし、憲法訴訟のところについては、戸松先生の批判も載っております。

憲法と言えば、やはり芦部先生ですよネ。

憲法

でも、一番最初に読んだのは、大学のときの授業で指定された長谷川正安「日本の憲法」岩波新書。記憶に残っていないな~。

大学時代のゼミで使った佐藤幸治「憲法」青林書院が、本格的に読み込んだ憲法の基本書です。しかし、あの文章は読みにくかったナ~。芦部先生を読んでから佐藤先生の憲法の良さが分かりましたネ。

あと、有斐閣のホームページの書評では、伊藤眞・加藤新太郎・山本和彦「民事訴訟法の論争」(書評;京都大の笠井正俊教授)も、対談形式で書評を書かれているなど、今後もたくさん載せてほしいですネ。アマゾンなどの書評を読むより、興味深く読むことができます。

2008年12月 5日 (金)

憲法判例集(第10版)

憲法判例集第10版

新書版で持ち運びに便利なうえ、判旨も比較的長めの引用で、結構、使えると思います!値段も良心的!

今日、第10版を購入しちゃいました。国籍法違憲判決から読みましたが、端的にポイントを押さえることができると思います。

もっと長い判旨を、という場合には、有斐閣の「憲法判例(第5版)」になると思いますが、ここ2年の判例の補充が必要ですよネ・・・。

2008年10月 7日 (火)

田村理「僕らの憲法学」ちくまプリマー新書

僕らの憲法学―「使い方」教えます (ちくまプリマー新書 75)

以前から探していた本でした。以前に、著者の文章を新聞で読んだことがあり(「HERO」のキムタクのセリフから憲法の本質を考えようというもの)、ぜひ、読んだみたいと思っていました。

憲法の制限規範性を「サッカーごっこ」という例で、国家と国民との「緊迫した攻防」であるいうように説明しています。が、この例は分かりやすいのかな?憲法が公権力に対してしてはいけないことを決めたルールである(立憲主義)ということは、これでわかると思うのですが、たとえが分かりやすく伝えているとは思いませんでした。

しかし、憲法に対する誤解を解くためには、ぜひ、多くの方に読んでほしい本であることには変わりありません。「それでもぼくはやってない」「救命病棟」などを題材にして、分かりやすく身近なものとして説明でいている点は素晴らしいと思います。

最高法規とは、「行政権がその規制の範囲内で行使される法律、裁判で具体的な事件を解決する基準となる法律、こうした法律よりも高い位置にあり、憲法に反したら主権者国民の多数意思である法律でさえ無効になる法」であり(108頁)、最高法規に定められた人権を保障する手段が違憲審査制である、その権限が裁判所にある(81条)というところの説明は分かりやすいと思います(110頁以下)。

最終章が9条に関するものなのですが、朝日新聞の2007年5月3日の提言の根本的なところを批判し、「青臭い理想」を目指すという田村先生の見解に、わたくしは賛同します。

今日のデール・カーネギー「こうすれば必ず人は動く」。第3章「誰もあなたには関心がない」から「成功ノウハウその4」。「自分がいかに素晴らしいかということを語ることをやめて、相手の良い点を心から褒めたたえる」(51頁)。

おべっかとは違うところが大事ですよね。「心から」というのが、やはり難しいところ。