法学セミナー2009年12月号 660号
ロージャナール「立法と現場」に、立命館大学の本山敦さんの「改正臓器移植法-民法・家族法の視点から」という短い記事がありました。
本山さんは「<慎重派>に与する。病児や家族の苦しみ・悲しみを思わないではないが、脳死を<人の死>とする見解に納得できない。だから、ドナーにもレシピエントにもなりたいと思わない。これは、法律の理論的な検討から導かれた結論ではなく、そのようなものに先立つ、人生観・人間観・生命観とでもいうしかない」(3頁)。
そして、感銘した一文を引用して論文を終える。
「人間が生きるということは、すなわち不幸を人間の条件として受け入れることではないか。」(湯川豊『須賀敦子を読む』141頁〔新潮社、2009年〕)。
本山さんが立場を明らかにしたことは、別に何とも思いません。人生観・人間観・生命観による立場なのだそうだから、そういう立場であることを否定するわけでもないんですが・・。
感銘を受けたという一文については、わたくしは全然感銘を受けません。不幸を人間の条件として受け入れたくはないですし、そんな運命を変えてみたい、替えるよう努力したいと思います。
とても気になったのが、改正法の問題を書いているところにあった一文。
「ちなみに、A案の提案者(中山太郎氏)をはじめ、A案に賛成した前衆議院議員の相当数が、先の総選挙で落選している。」
先の選挙で、臓器移植法って論点になってましたか?
上記文章は、「国民の意識の変化や国民の要請もないのに、臓器移植法の基本原理の変化を内容とする改正案はいかがなものか。そのような案に賛成した議員は、民意とかけ離れているのだ。だから落ちたのだ」ということを言いたいんだな、と行間から読み取ることができます。これは、わたくしの深読みしすぎというわけではないと思います。こういう風に感じたからこそ、ブログの記事にしようと思ったんですから。
法学教室2009年12月号=351号の38頁の甲斐克則早稲田大学教授の「改正臓器移植法の意義と課題」の方が、今後の課題を浮き彫りにしていると思う。
是非、読み比べてほしいと思います。
法学セミナーには、前田達明先生が「法の解釈について-民法の解釈を例として(前編)」(36頁以下)を書いています。誤植発見。
36頁下から9行目;(誤)民法496条第2項 ⇒ (正)民法446条第2項






