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2008年7月 2日 (水)

小林和之「『おろかもの』の正義論」ちくま新書

「おろかもの」の正義論

超久々に図書館で本を借りました。以前は横浜市に住んでおり、蔵書数も多く、よく借りていたのですが、現在住んでいる街の図書館は蔵書数も少ないために、住み始めてから8年も経って初めて利用カードを作成し、本を5冊借りました。もっとも、図書館に行った本当の目的は、ジュリスト1158号~1160号の平井先生の「契約法学の再構築~法律家の養成という視角から~」という論文をコピーするためでした。

が、いろいろと見ていくうちに、購入したいと思っていたこの本を見つけ(なぜか法学のところに置いてありました)、借りてきました。

以下、読み進めていくのと同時並行で、いくつか気になった、覚えておきたい文章を列挙し、それに対する感想を。

「『正しさ』は、人の上にもなく、心の中にもなく、人と人との間にある。・・・本書のねらいは、神の絶対に救いを求めず、人の内面に引きこもらず、立派に約束事を作り上げるために、『正しさ』の理と必然を、具体的に、誰にもわかるように解き明かすことにある。・・・『正しさ』は人に理解されてはじめて『正しさ』としての力をもつ。納得して『正しい』と思うことによって人は規範に従うのだ」(14-15頁)。

この点については、わたくしも同意見です。

「『正義は勝つ』『悪を滅ぼして正義を示す』。・・・だが、もし正義がそういうものでしかないとしたら、正義は悪に依存することになる・・・こういう類の正義感をわたしは、暗黒的正義感と呼んでいる。・・・『正しさ』は、勝ったり負けたりしないものだ。勝ち負けは争いを前提にしている。だが争わないことにこそ『正しさ』はあるんじゃないか。すべてを生かす。わたしが目指す『正しさ』とはそういうものだ。それでも・・・暗黒的正義もまた確かに『正義』の一面だということだ」(15-16頁)。

悲しいけれど、これも現実ですよネ。光と影・・・。

「そもそも『正しさ』は具体的な問題に即して論じることではじめて意味をもつものだ。・・・『正しさ』を定める規範が具体的な人間の行動の準則である以上、『正しさ』を論じる人間は態度決定を迫られる。具体的な問題を、自分はどうするのかが『正しい』と思うのかを抜きにして考えることはできない」(17-18頁)。

具体的問題を解決しなければ、理論として意味がないですから、この点についてもわたくしは同意見。また、自分の態度決定を迫られる、そのような厳しさがあるということについても同意見。

「神が存在するかどうかとか、絶対に正しいことがあるかとかいうことは、答える必要がない問題だ・・・人間が誤りうることさえ認識しておけば十分なのだ」(25頁)。

無神論者のわたくしには、異論がありません。

「規範が全くない状態・・・は、一見自由にみえるかもしれないが、じつはとても不自由な状態である・・・あなたが殺すのが自由ということは、あなたを殺すのも自由ということだ。・・・そういう状態では、思いのままに振舞うことなどまったくできないだろう。・・・人がしたいこと(欲求)を実現していくために、ルールを定め、『してはいけないこと』を決めなければならないのだ(欲求の交通整理)」(26-27頁)。

自然状態の話ですネ。ただ、ここが、なぜか腑に落ちない。「そういう状態」でも、思いのままに振舞う奴がいて、そういう奴こそが問題だと思うからです。とするならば、これは「理」による説得ではなく、「数」による説得ではないかな、というのがあって、納得できないんです。

「『人間の尊厳』・・・各個人が等しく尊厳をもつものであるとするならば、一部の人間が優先されるような秩序は正しくないということになろう。・・・だ、幼児を性的に虐待するような行為さえ、行為者も人間である以上その尊厳を否定することにならないと考えることは、『尊厳』ということばを無意味にしないだろうか。人間は尊厳をもちうる存在である。そして、自らの行為によって尊厳を失いうる存在である。『尊厳』ということばを空っぽの抽象概念にしないためには、むしろそう考えるべきだろう。そしてもう一つ、失った尊厳を回復する可能性をもった存在であるということも心にとめておこう。たとえ、それがとても信じられないような場合があるとしても。(したがって)人間の尊厳は(欲求の秩序の違いをわけるために設定すべき)公理にはできない」(29-30頁)。

人間に主体性を認めるということは、こういうことなんでしょうネ。ただ、このように考えると、死刑の問題について言えば、肯定にも否定にもつながると思うのですが・・・。

「すべての人を平等に取り扱う規範システムは、特定の人間を選び出す公理を必要としていない。・・・『人間の尊厳』は、弱いかたちでこちらの規範システムにも含まれていると言っていい。というのは、人であるというだけで、規範システムの中で平等な主体として認められるからである」(31頁)。

「『人を殺したい』という欲求は、『欲求の整理』の必要性から、必然的に否定される。ある人を殺すことはその人のすべての欲求を否定することであり、『欲求の調整』そのものを否定することだからだ。・・・これが、人がそれぞれの欲求を追求することを可能にする最小限の枠組みだと思われる。力ずくでも実現すべき最低限必要な規範=法の範囲は、ここまで絞ることができるかもしれない。これで、とりあえず生きて欲求を満たしていくことができるはずだ」(33頁)。

「欲求の整理」という理由には、少し釈然としない部分が残ります。

「行き当たりばったりな偶発的欲求と、はっきりとした目標をもった系統的欲求とは、特定の主観に依存することなく区別することが可能だ。そして、後者を『より正しい』と設定することはほとんど必然的に決まるといっていいかもしれない。生存競争が行われている状況を想定すると、生き残りに有利なのは後者だからだ」(36頁)。

「『正しい』振る舞いと『正しくない』振る舞いとを分ける規範をもつことは、共同作業を可能にする。・・・欲求を抑えて、しなければいけないこと・してはならないことを定める規範があってはじめて協力することができる。・・・各人の欲求をコントロールする規範が社会を成り立たせており、規範なしに社会はあり得ないのだ」(36-38頁)。

「社会あるところ法あり」の法諺ですネ。

「生命なしには、他のあらゆる価値を実現できない。そして、生命は、生命以上に重要な価値をもっている場合になおいっそう重要になると言ってもいいだろう。生命は、生命より重要なもののためにただ1度だけ使うことができる価値だからだ(生命の尊重は、絶対・最高の価値ではないということ)。

 生命は、他の価値を享受する前提になっている特別な価値である(このような、他の価値を享受するための価値をメタ価値と呼ぶことにしよう)。・・・生命なしに他の価値を享受できない。このことは『絶対に』正しい。・・・その意味で、生命には最高ではないとしても『基底的な(≒絶対的な≒特別な)』価値があるということができる。

 それゆえ、何が正しいのかについての絶対的な基準が存在しない社会においては、生命を最も尊重しなければならない。それは生命より重要な価値が存在しないからではなく、生命より重要な価値を尊重するためには生命をも尊重しなければならないからだ」(42-47頁)。

生命が大事である、ということは、当たり前のこととして考えていましたが、このようなレトリックで考えることができるんですネ。うぅ~ん、となると、先ほどの「秩序の整理」というだけで、また「人間の尊厳」を消極的な原理としか捉えていないことから、「人を殺したい」という欲求を「正しくない」と決められるのかな。自らが「生命」を尊重する理由にはなるけれども、他者の「生命」を尊重する理由になるのだろうか。もしかしたら、読み進めていくと筆者の回答があるのかな。このような感想を持つのは、やはり「秩序の整理」の議論が、自分には少し納得できていないからだろうと思います。

第3章「規範は『死』を決められるか」では、脳死の問題について検討していますが、いままで読んだ本や記述に比べて、新たに参考となる記述はなかったです。結論としては、前田雅英教授の結論とほぼ同じ。前田説の問題点である「生命の比較を行うことになる」という批判については、残念ながら触れられていません。

第4章「事実とは何か」についても、特には・・・。ただ、刑事弁護についての世間の誤解を解くことには意味があるのかな。

第5章「科学は正義を決められるか」。次の文章の所。正義』の問題を処理しようとするときは、対立する考え方と真摯に向き合い、双方を可能な限り調和させ、それが不可能な場合には、一方を優先する。その場合でも、否定される側に配慮して優先する側を修正する、といったプロセスが必要である」(105頁)。

第6章「他人に迷惑をかけてはいけないか」。ここでは、少し過激な(?!)表現が出てきます。交通事故を例に、「人に迷惑をかけてもいい社会」から「人に迷惑をかけてはいけない社会」への転換を言いますが、その場合でも、『人間は互いに迷惑を掛け合って生きていくしかない』ということを留意すべきと主張しています。

第7章「選択の自由があるのはいいことか」。「個人を尊重する社会であるためには、選択肢とそのインフラに配慮しなければならない」(138頁)。

第8章「暴力をどう管理するか」。死刑について論じています。死刑を考えるにあたって、考慮すべきことに検討を加え、「死刑は罪のない人間を処刑することを受け入れることなくして行うことはできない・・・だが、それを受け入れることが正当化される状況というのはじつは考えられる。・・・死刑があることにより、自分や家族が無実の意味で処刑される可能性が生まれるとしても、死刑によって自分や家族の生命が守られるならば、無実の罪で処刑されるリスクを引き受ける意味はあるだろう」(168頁)。死刑制度については、わたくしも著者と同じく、肯定論→廃止論→悩み中という感じなのですが、筆者のこの意見については、・・・・です。誤判のおそれを否定できない中、無実の罪で死刑に処せられる人が出てくることを肯定する・正当化することなんてできるのだろうか、正当化する理由は見出すことがなかなかできません。もちろん、犯罪者はにくいと思うし、殺してやりたいという気持ちは当然に持つでしょう。なので、現在は悩み中なのです・・・。

今日はここまでで。

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