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2008年6月27日 (金)

平井宜雄先生の論文。

平井宜雄先生の「債権各論Ⅰ―上 契約総論」(弘文堂)が7月中旬に発売されるという記事を前に書きました。発売されるまでに、久々に、平井先生の本を読もうと思って、いま「債権総論」を読んでいます。あわせて、最近の平井先生の論文を読もうと思い、今日は仕事が休みということもあり、図書館に行ってコピーをしてきました。

NBL5冊、専修大学法学研究所所報。まず読んだのは、NBLの689号・690号。「内田貴教授著『契約法学の「再構築」をめぐる覚書』を読んで」の論文。

この論文については、内容が内容だけに、いろいろな評価があるようです。

その点はとりあえず置いといて、論文の中に、いくつか自己への戒めとしなければいけない、平井先生の学問に対する厳しさを知る、そのような個所がありましたので、以下、抜粋しておきます。

NBL689号35頁注1より。「批判の対象たる言明(主張)をさすのに、『御託宣』というような揶揄的・貶価的な語を用いるのは、批判においては決して行なってはならない行為である。それは、事実と論理とに依拠して批判する態度から生まれるものではなく、自己の意見に反する主張を、読む者の感情に訴えることにより、あらかじめ矮小化しておいて有利な立場にみずからをおこうとする戦略的態度から生まれるものだからである」。

NBL同号同頁注4より。「要件・効果を述べた言明の体系として法律論を理解し、その元明への包摂によって法律問題を解決する、という思考方法が法的思考様式の基本であり、したがって、この思考方法を教えることが法律家の養成にとって重要だと私は考えている」。

NBL690号34頁注3。これはあえてここには載せません。

NBL同号同頁。「他人の考え方や思想や学説等を批判するには、それらをまず理解することから出発するのが、批判者の守るべき第一の、最小限の規範的態度である。しかし、理解するということは、批判の対象たる言語的構成物(言明)が伝達しようとしている意味を理解するということだけではなく、その言明を生んだ、より広い問題意識・思想的土壌・学説史的背景を理解することであり、さらにいえば、当の言明を生み出した者がそれまでに作り上げてきた独自の知的世界を理解するということでもある。したがって、批判の対象たる言明を理解するとは、それらの知的バックグラウンドすべての文脈のなかで当の言明を理解するということであり、それは、誇張していえば、異文化を理解するのに匹敵するほどの知力と知性とを批判者に要求する困難な作業である。だからこそ、批判者は、批判の内容やその根拠にいかに自信をもった場合であっても、“I may be wrong and you may be right ・・・・・・”(筆者注。ポパーの言葉。同38頁の注1を参照)という態度を忘れてはならない。これが批判者の守るべき第二の最小限規範的態度である」。

NBL同号35頁以下。「『民法の規定とそれに関する判例・学説についての最低限の情報を理解しやすく学生に伝えるのが法学教育である』・・・(というような)法学教育観が一部の教師や学生に歓迎されるであろうことを私も認める。・・・民法の規定および判例・学説に関する『最低限の情報』を『理解しやすく』つまりわかりやすく教えるという法学教育観(あるいは『法学教師の役割』観)を歓迎する教師や学生の範囲はますます大きくなるであろうことも、一般的には予測できる。しかし、私は、みずからの経験に照らしてこのような法学教育観を支持しえない。

 第一に、・・・教育の効果は教師と学生との相互作用(筆者注、原文は「相互作用」に傍点が振ってあります)から生まれる。法学教師がいかに『わかりやすく』教えたつもりでも、『わかるかどうか』は学生の能力にかかっている。そして、理解する『能力』は、学生の数だけ存在するといえるほど、実に多種多様なのである。・・・(筆者注、ここは略しますが、ぜひ、一読してほしい)学生の理解能力がこのように多様であることを考えれば、『わかりやすく』教えるということの意味は自明ではなくなってくる。もし、その意味が平易な用語や事例に頼って説明するということならば、数式を使わずに物理学を教えるというに等しく、法学教育としての意義を失うことはいうまでもない。そうだとすると、多様な学生に対する法学教育の目的は、結局のところ、・・・知的刺激を与え続けて学生の・・・知的好奇心を呼び覚ますことによって―『わかりやすく教える』ことによってではなく―『みずからわかる』のを助けることにあるといわなければならない。少なくとも、どうすれば学生に知的刺激を与えることができるかを考え続け、その方法を模索することこそが、法学教師の任務であることとなる」。

第二に、・・・どういう教育方法を採用すれば学生が当該分野のもっとも基本的な概念を理解でき、それによって、どのような時代になっても通用する(つまり、『陳腐化』しない)種類の基本的知識をもっとも効率的に習得できるのか、未知の問題を発見し解決する能力を学生が開発するのをいかに助けるか、についての方法を工夫することである・・・。

第三に、法学をはじめて学ぶ学生は常に大学の学生であり、小学生や中学生ではない。一定の知力を備え、常に変化する多様性をもち、知的好奇心を少なくとも内に秘めた存在だと想定しなければならない。しかも、多くの学生にとっては、大学の法学部が法学に接する最初で最後の機会であり、教え方如何が彼または彼女たちが将来かかわるであろう法律問題に関するイメージをも決定する。これがいかに重大であるかという、いわば「恐怖感」を法学教師は常に持ち続けなければならない。・・・教育が教師と学生との相互作用から生じる以上、学生側にも教師の知的能力を判定する機会がある。そして、学生たちは教師の知的能力を判定する『嗅覚』というべきものを以外によく備えている・・・法学教師は、この『嗅覚』をも怖れなくてはならない。・・・(この法学教育観)は、学生を『最低限の知識』が与えられるべきまったくの受動的存在であることを前提とし、それを疑わない。しかし、学生の、少なくとも潜在的な、知的能力を侮ってはならない。それは教師の能力を試すいわばリトマス試験紙なのである」。

法学教師だけではなく、「教員」と呼ばれる方にも心して頂きたい、内容だと思います。また、学生を主体的に扱う平井先生の論を読んでいるうちに、團藤先生の「主体性理論」を思い出しました。そんなの関係ねぇって言われるかもしれませんが・・・。

また、言葉の選び方にも気をつけなければいけない、学問の世界は本当に厳しい世界であるということを再認識しました。

契約の時代―日本社会と契約法

なお、内田先生については、「契約の時代」(岩波書店)に、上記に引用した平井先生のNBLの論文についてコメントが、注で載っています。

まだまだ勉強は続きます・・・。

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